みなさんこんにちは。
今回は野村克也さんの著作である『弱い男』を取り上げます。
生前のインタビューを書籍化したものなので、厳密には野村さんの著作ではありませんが、
明確に『死』を意識して語られたその内容は、
これまでの野村さんのイメージとは明らかに一線を画すものとなっています。
野村さんを好きな人も嫌いな人も、ぜひご一読ください。
価格:1100円 |
野村さんの略歴について
「野球には詳しくないけど、野村監督のことは知っているよ」という方も多いと思います。
野村さんは1935年、戦前の生まれです。高校を卒業後、テスト生として南海ホークス(今のソフトバンクホークス。当時は大阪にありました)に入団します。
どうしてもプロになりたかった野村さんは、先生から交通費を出してもらって入団テストを受験します。
その際のテストでボールの遠投を指示されますが、合格ラインに達しません。
あわや不合格、というところですが、2投目を投げる際に、居合わせた先輩選手がこっそり『(規定のラインより)前から投げろ』と指示してくれたことで合格を果たします。
その後、一年でクビを宣告されますが、その際に
『(親会社の)南海電鉄に飛び込みます』
と言い放ちます。
というのも、野村さんは3歳のころにお父さんを戦争で亡くし、ずっと母子家庭で育ちました。
詳しくは本書を見てほしいのですが、
極貧生活の中で育ったため、貧乏が理由のいじめや不登校も経験。
いろいろと試した結果、自分には野球選手として大成するしかない、貧乏を脱しなければいけないという思いが非常に強く、本当に飛び込むつもりだったようです。
担当だった南海電鉄の課長は『冗談でもそれは困る』と、野村さんのクビを取り消します。
ここでクビになっていたら、その後の野球の歴史は大きく変わっていたはずです。
というのも野村さんはそこから工夫や研鑽を重ね、やがて当時の野球界を代表する選手として頭角を現すからです。
・首位打者1回
・本塁打王9回
・打点王7回
・通算本塁打数 657本(歴代2位)
・ベストナイン19回
あまり知られていませんが、通算打席数もNPB記録です。
身体への負担が大きく、ケガと隣り合わせの捕手というポジションを考えると特筆すべきものがあります。
なお、捕手の首位打者獲得者は2024年現在、野村さんと古田さん(ヤクルト)しかいません。
その後、南海ホークスの監督に就任するとクイックモーション1の積極的な導入や
当時の天才投手・江夏豊2をリリーフ転向させ、先発・中継ぎ・抑えという投手分業制の『革命』、
評論家時代の9分割されたストライクゾーンによる配球の解説は50年近く経ったいまでも使われるなど、現代野球には野村さんが確立したフレームワークの一部が今でも生きています。
ヤクルト監督時代とそのイメージの確立
しかし、現在にまで至る『野村監督』のイメージが確立されたのは、
1990年から指揮を執ったヤクルトスワローズの監督時代でしょう。
それまで9年連続でBクラスだったスワローズを率いてデータを重視した野球を標榜。
9年の監督生活の中で4度のセリーグ制覇と3度の日本一を達成しました。
野村さんの提唱したデータを重視する(import data)という意味の「ID野球」は流行語にもなりました。
特に当時、人気・実力ともに圧倒的で毎年のように大型補強を繰り返す
読売ジャイアンツと互角以上に渡り合う様はまさに
「柔よく剛を制す」「寡兵(かへい)よく大軍を破る」という言葉を想起させます。
この戦いぶりは世間にも深い感銘を与えたのでしょう。
野村監督のチーム運営や人心掌握術に学ぶ組織論!
という体の野球の枠を超えた自己啓発の本も多く出版されています。
僕から下の年代だと楽天の監督として、田中マー君を育てたおじいちゃん監督、という感じでしょうか。
このときは『弱者の兵法』を標榜し、楽天イーグルスを球団初のAクラスへと躍進させています。
一部では批判もありましたが3、スターウォーズで言えばマスターヨーダのような、
『野球のみならず、人生にも精通した達人』というイメージを僕は持っていました。
野村家の『大いなる不在』?父親として苦悩する野村克也
しかし本書では、人並みの人間として苦悩してきた、
いわば野球人としてはなく、一人の人間としての野村克也の心情が全編を通じて吐露されています。
野村さんは前述の通り、父親を3歳の時に亡くしています。
それだけに、息子の野村克則さん4との向き合い方は常に揺れていたようです。
克則さんが生まれた時、野村さんは南海で選手兼任の監督としてプロ野球の最前線に立っていました。
そのためほぼ家には居らず、父親らしいことがあまりできなかったようです。
父親らしさとはなんだろうか。父親はどうあるべきなのかー。
息子について語る章では、超一流のプロ野球選手の息子という好奇の視線に晒されるという点からか、何かこう、『克則さんへの申し訳なさ』というものが行間からも本文からもにじみ出ています。
その一方で心温まるエピソードも紹介されており、これまでの野村さんの著書にはない、等身大の親子関係が語られていると思います。
妻は強いー妻・沙知代との関係
野村沙知代さんをご存じでしょうか。
人によっては、野村克也以上に奥さんの野村沙知代(サッチー)の方を強く記憶している、という方もいるかもしれません。
一時期はメディアへの露出が非常に多く、96年には選挙にも出馬。
1999年ごろには役者の浅香光代さんとの確執、いわゆる
『ミッチー・サッチー騒動』で連日ワイドショーに取り上げられていたからです。
(小学生)
当時小学生でまだ野球に興味がなかった僕も、サッチーが『(浅香さんは)私にとってその辺の石ころにも過ぎない』と挑発していたのはよく覚えています。
話を野村克也さんに戻すと、克也さんは一度離婚歴があります。
相手は社長令嬢で、25歳の時に籍を入れたそうです。
しかし、結婚生活はあまり幸せなものではなかったようです。引用します。
『…この結婚にはそもそも無理があった。何不自由なく暮らしてきた社長令嬢と、幼いころから母子家庭で貧困の極みにあった私とでは、何から何まで価値観が違っていたのだ。
結婚から何年か経った頃、彼女の浮気が原因で私は家を出ることにした。
本当ならば、すぐにでも離婚をしたかったのだが、彼女はなかなか離婚届に判を押そうとはしなかった。』ー「弱い男」野村克也、p108
おそらくですが、当時の日本の格差、特に物質面ではなく精神面での格差というのは現代の比ではなかったのではないでしょうか。
結婚生活がうまくいかない中、35歳の時に野村さんは伊東沙知代さんと出会います。
すでに奥さんとは別居状態にあった野村さんは、やがて沙知代さんと同棲を始めます。
しかし、暮らしていたマンションに泥棒が入ったことで、不倫発覚という形で世間に報道されてしまいます。
『コーチ会議に愛人が出席している』『どの選手を使うか決めるにも愛人が口出ししている5』とセンセーショナルに報道されてしまい、これが原因で野村さんは監督を追われます。
詳しい方はよくご存知でしょうが、
沙知代さんが原因で克也さんが監督の任を追われたのはこの一度だけではありません。
先述の『ミッチー・サッチー騒動』は沙知代さんの脱税容疑による逮捕という、誰もが予想し得ない形で幕を閉じます。
これで以前からささやかれていた沙知代さんの学歴詐称疑惑が正式に『詐称』と確定します。
この経歴詐称は克也さんも報道があるまで把握していなかったそうです。
沙知代さんは結果的に不起訴となるのですが、当時阪神タイガースの監督を務めていた野村さんはまたも辞任に追い込まれてしまいます。
なぜ野村さんは離婚しなかったのでしょうか。
事実、周囲の人間には離婚を進める人もいたといいます。
それに関して、野村さんの口からは明確な理由が語られます。
それは一言で無理矢理まとめるなら『沙知代はプラス思考で、私はマイナス思考だったから』というものなのですが、
ある意味において、本書は結果的に
『野村克也はなぜ沙知代と離婚しなかったのか』
の回答になっています。
終わりに
文章にすると安っぽくなってしまいますが、
『野村さんも一人の人間として苦しんでいたんだなぁ』というのが読んだ後の第一印象でした。
そこには、『どんな人でも人生に対しての悩みや苦しみというのはある。それはどんなに凄い人でも変わらない』という当たり前の事実に対する素直な気づきがありました。
月並みになってしまうけれど、やっぱりその苦しみに対しての向き合い方に、その人の価値観や哲学が出るのだと思います。
『弱い男』とタイトルが付いていますが、野村さんの業績はその『弱さ』からくる苦しみに対し、懸命にもがいたからこそ成しえたものと思えてなりません。
クビを告げられたときに、わたしは涙を流していた。そして何とか翻意してもらいたいという思いで、気が付けば「電車に飛び込む」なんて口から出ていた。
なにふり構わぬ思いだった。人目なんて気にしている場合ではなかった。
やっぱり、弱い男だよね。ー「弱い男」野村克也、33p
「やるべきことはすべてやったのだ」
そんな風にドンと構えることなど、私にはできなかった。
次から次へと心配事が頭に浮かんできて、「頼れるものならば藁にでもすがりたい」という、そんな心境だった。
いくら相手と比べて、チーム力では優位に立っていたとしても、チームの調子が絶好調でも、勝負事はやってみなければわからない。私たちの仕事は自信と不安が常に背中合わせなのだ。ー「弱い男」野村克也、39p
そしておそらく、スポーツ選手に似つかわしくない、いわば『野球界に革命をもたらすほどの筋金入りのマイナス思考の持ち主』であった野村克也の妻は、結果的に沙知代さんくらいの『私を中心に世界が回っている』と考えるくらいの女性でないと務まらなかったのではないでしょうか。
余談ですが、僕は過去に一回だけ野村さんを間近に見たことがあります。
2011年ごろ、友達が卒団したシニアリーグの創立記念パーティーがあり、
「友達がみんな県外に行っちゃって誰もいない。
お前は暇そうだから、一緒に来い」
と無理矢理連れていかれたところに、野村さんが特別ゲストとして招かれていました。
当時楽天の監督を退任し、あまり体調は良くなさそうでしたが、講演が終わり花束を贈られると、
『ありがとう。家内…サッチーは花が好きだから喜ぶよ。家へ飾って夫婦で楽しませてもらうね』
と笑顔でお礼を述べていたのがとても印象的でした。
本書の中ではサッチーに対するぼやきもたくさんあり、
中には『これは本当に今でも怒ってるんだろうな』、と思える部分もあるのですが、
それでも長年連れ添った夫婦だからでしょうか。
不思議と不快には感じず、それどころか
「たぶん、なんだかんだでお互いに必要していて、ベストパートナーだったからここまで言えるんだろうな」と素直に思いました。
僕は結婚歴もない独身の男なので、結婚生活や子供との向き合い方などは想像力で語るしかありません。
その意味で、既婚者の方や、野村さんに影響を受けたことがある方、女性など、いろんな立場の人にこの本は読んでいただきたいです。
それにしてもデータ野球を標榜する野村さんが、こんなに人間臭い人だとは思わなかったなぁ。
- ランナーがいる時に投球動作を簡略化し、素早く投げるモーションの事。球威は落ちる傾向にあるが、盗塁を防ぐのに効果があり、現代野球では必須の技術となっている。なお、一番初めに導入したのは1950年代の西鉄ライオンズの三原監督とされる。
↩︎ - 阪神⇒南海⇒広島⇒日本ハム⇒西武⇒米ブリュワーズ傘下。阪神時代にシーズン奪三振数401の日本記録(20世紀以降に限ればおそらく世界記録)を樹立した天才投手。その後は左手の血行障害で不振に陥り、野村が監督を務めていた南海へ放出される。先発こそが投手のあるべき姿とされていた当時の風潮からリリーフ転向を渋るが、野村の「野球界に革命を起こそう」という一言により転向を決意。当時もリリーフ投手で優れたピッチャーは何人かいたが、江夏クラスの選手がリリーフに転向するのはまさに革命だったらしい。今で言えば社内のナンバーワン営業がDX課などのバックオフィスの責任者に転向するくらいのインパクトだろうか。『江夏の21球』は伝説。余談だが、芥川賞作家の小川洋子は江夏の大ファンで、代表作「博士の愛した数式」において、完全数を背負った男として作品全体のモチーフ的に取り上げている。
↩︎ - 代表的なものは『キャッチャーの配球や球種選択(リード)が勝敗に与える影響は小さい。キャッチャーの能力を過大評価しすぎではないか』というものだろうか。
実際にセイバーメトリクスと呼ばれる統計を基にした解析によると、捕手の配球や球種選択能力はほぼ勝敗に寄与しないという声もあるようだ。筆者もかつて野村が著書の中で、当時不振に陥っていたピッチャーの実名を挙げ『自分がリードすれば10勝くらいならさせられる』という旨の文章を書いていたのを見て「いや、それはさすがに言い過ぎじゃないのか?」と思った記憶がある。なお、ここではキャッチングや打撃能力、肩の強さなどは考慮されておらず、すべての捕手の能力を否定するものではないことに注意。
↩︎ - 沙知代との間に38歳の時に出来た息子。本名は野村克則。堀越学園→明治大学→ヤクルト→阪神→巨人→楽天。当時国内で活躍していたイチローにあやかってか、登録名はカタカナで『カツノリ』だった。現役時代は親の七光り的な批判が常に付きまとっていたが、明治大学時代は首位打者と打点王に加えてベストナインも獲得しており、全く実力がないのにプロ入りしたわけではない。
↩︎ - この点について野村は本書の中で『根も葉もない噂話』と断りを入れている。しかし、「決めたことが後から愛人の一言でひっくり返った」「球場に直接電話してきて選手起用にクレームを入れてきた」といった旨の証言も多く残っているため、現場介入とまでは行かなくとも、それに近い出来事はあったのかもしれない。 ↩︎
コメント